長崎原爆忌・安置された被爆マリア像 | 三太・ケンチク・日記

長崎原爆忌・安置された被爆マリア像

1945(昭和20)年8月9日午前11時ごろ、米軍のB29爆撃機「ボックスカー」がプルトニウム原爆「ファットマン」を投下し、長崎市松山町の500m上空で爆発した。約7万4千人の市民が死亡、約7万5千人が重軽傷を負いました。8月9日原爆犠牲者慰霊平和祈念式が行われ、原爆投下の時刻とされる午前11時2分から1分間黙祷が捧げられます。僕の母親が長崎県出身なので、母親が里帰りをした折りに、長崎市の平和公園・平和祈念像を訪ねたことがあります。いつもこの時期、なにもできない自分が気になります。 今日あった長崎関連のニュース、特に浦上天主堂関連を、以下に掲載します。


安置された被爆マリア像

長崎・浦上天主堂新設の祭壇に安置された「被爆マリア像」。戦後、同天主堂のがれきから発見された。平野勇主任司祭は「戦争と被爆を体験した像を反戦・反核のシンボルにしたい」と話した。
時事通信社:8月9日



被爆マリア像公開

長崎市本尾町の浦上天主堂で、終戦後にがれきの中から見つかった「被爆マリア像」が、60回目を迎えた長崎原爆忌の9日から公開される。
時事通信社:8月7日



独唱するコロンえりかさん

長崎市本尾町の浦上天主堂で一曲だけのコンサートが開かれた。曲は「被爆のマリアに捧げるアヴェマリア」。瓦礫の中から見つかった被爆マリア像がこの日、天主堂の祭壇に60年ぶりに安置されるのを記念したものだ。企画したのは東京都文京区の岩波智代子さん(57)。目を閉じて聞き入った岩波さんは「記憶を摘む悲劇は長崎で最後にしなければ」と静かに祈った。天主堂は爆心地からわずか約500メートル。原爆は浦上で暮らしていた信徒1万2000人のうち、8500人の命を奪ったとされる。


岩波さんの父親は市外にいたが、3日後に市内に入って被爆し、19年前に他界した。岩波さん自身は天主堂近くで生まれ育った被爆2世。実家は代々の信徒で、原爆の犠牲になった祖母たちは、明治初期の信徒迫害「浦上四番崩れ」が語り継がれ、記憶に残っていたはずの世代だ。「記憶の継承を理不尽に断った原爆を憎みます」と岩波さん。やがて「被爆のマリアに捧げるアヴェマリア」という、ベルギー人の作曲家エリック・コロンさんの曲に出合い、4年前から、この曲のコンサートを長崎県内の教会で開き始めた。「伝承されていたはずの歴史、原爆で失った『文化』を取り戻したい」一心だった。


被爆マリア像は原爆投下2か月後に見つかった聖母像の頭部で、右ほおに黒く焦げた跡が残る。小聖堂に復元された祭壇に、マリア像を納める式がこの日行われた。「天主堂で歌いたい」。コロンさんの娘で、日本人の母親を持つ声楽家のコロンえりかさん(東京都世田谷区)から相談を受け、岩波さんが橋渡しした。式の後、えりかさんのソプラノは、パイプオルガンの伴奏が流れる中、堂内にこだました。マリア像をたたえる曲に、信徒たちは聞き入った。歌い終えてまもなく、午前11時2分、原爆犠牲者を悼むアンゼラスの鐘が鳴った。
読売新聞:8月9日


旧浦上天主堂

おじいちゃんが建てた教会こちら

旧浦上天主堂は、大正14年、建設の時にも参加しましたが、双塔は鉄川与助が作りました。浦上天主堂は、長崎市の浦上にあり、原爆の爆心地から北東に約500mしか離れていません。旧浦上天主堂は、着工してから実に31年という月日をかけて完成しましたが、20年あまりで、原爆によって一瞬に壊れてしまいました。現在の浦上天主堂は昭和34年に再建されたもので、与助の長男与八郎の設計施工です。

鉄川与助のつくった天主堂は、50以上と言われています。特に五島列島にある小さな教会が建築的にも優れていて地域に馴染んで印象的です。